昭和初期の日本陸軍について何冊か [読書]

昭和史の陸軍について何冊か本を読んだので、いくつか抜き書きしてみる。

「昭和期日本の構造」 (筒井清忠、講談社文庫1996)
皇道派と二・二六事件について。皇道派には、所謂尊王主義的で短慮なグループと北一輝の「日本改造法案大綱」の影響を請け天皇制から脱却した国家体制の改革を目指すグループがあったとする。
その前段として陸軍の構造、皇道派誕生の契機となった永田鉄山ら陸軍三羽烏、二葉会→一夕会の成り立ちが紹介される。史料を丹念に追い、先論の誤りを指摘するなどしている。
二・二六後、二重三重の策を練り、現内閣・軍官僚の引責辞任と真崎ら皇道派に有利な人事を画策したが、当時侍従長であった木戸幸一がこれを看破したことで目的は完全に潰える、というのがクライマックス。
統制派と永田の動向については、永田が二・二六以前に相沢事件で死んだこともありいつの間にか触れられることがなくなった。

「永田鉄山」(森靖夫、ミネルヴァ2011)
陸軍の組織について更に詳しく知りたくなり、統制派の中心人物であった永田鉄山の伝記を読む。
著者は史料を論理的に繋ぎながらも、独善的野心的とされた永田の評価を見直すことに心を砕いているようだ。
派閥に拘らず先輩軍人に敬意を表していた永田は派閥打倒を積極的に主張したのではない、という説である。
もっとも永田寄りの視点であることから、巷の定説よりは上司である林の評価が高く、荒木・真崎の評価が低くなっているように思われる。軍紀を重んじ、直属の上司を飛び越えてはたらきかけをしなかった永田からすれば荒木・真崎は当然軍紀を軽んずる者と映ろうが。

「評伝 真崎甚三郎」(田崎末松、芙蓉書房1977)
著者は大正元年生まれの陸軍中野学校卒業生だとある。中野学校については現在「秘録陸軍中野学校」(畠山清行、新潮文庫2003)を読み進めているところだが、天皇制についての批判も許したという独特の教育が紹介されている。同校友会が1978年に「陸軍中野学校」という校史を作っているので著者が何期か知る材料があるかもしれない。

大筋では天皇制には批判的、軍人については定説に近い評価(軍人として評価されている人物を批判しない)という印象。
真崎については人情に厚い人物と評価している。
読み方としては統制派、皇道派、他の官僚との絡みを中心に摘み読み。
真崎だけでなく永田も真崎の左遷人事に関わっていなかったとして批判することを避けている。真崎と林・永田との確執については、永田が全体主義に傾倒していくことを真崎が危惧したと示すに留まる。
先の「永田鉄山」に引用された「真崎甚三郎日記」(山川)の永田死亡に関わる記述では永田に対する憎しみを露わにしている。また、wikipedeiaなどでも極東軍事裁判(不起訴処分)に先立つ尋問では「供述内容は責任転嫁と自己弁明に終始した」とされ、林・永田に対しても変わらぬ憎しみを見せたようであるが、この経過については触れておらず、敗戦に関して真崎の先見の明を持ち上げるような記述さえある。
1956年没であるが、1947年以降は「もっぱら対外活動を停止していた」として年譜は省略されている。


真崎が皇道派の黒幕と見なすか否かがそのまま評価の上下に結びつくわけではない。真崎が皇道派から慎重に距離を置いたことを、自身の出世のために利用しようとしたとするか皇道派将校や国体を案じたかと取るかである。
「評伝 真崎甚三郎」では永田を全体主義に傾倒したとするが、「永田鉄山」、「秘録陸軍中野学校」は、永田らごく一部の軍人が指向した国家総動員体制は、後の軍部の歪められた国粋主義、ファシズムとは違うと訴えている。
永田が総力戦のモデルとしたのは主にはドイツだが、ドイツに限らず欧州は総力戦体制を確立しており、それは国民が自らの意思で国土を守るために武器をとることを意味している。とすればお上主導の「国家総動員」を行った日本は、最後まで総力戦体制が確立できず、熱しやすく冷めやすいと永田が悩まされた大衆心理は終戦時に露呈したのではないか。


そのほか

「現代史資料」(みすず)から以下の文章を読む。いくつかはウェブ上で全文が閲覧できるようになっている。

日本改造法案大綱(北一輝)
国防の本義と其強化の提唱(陸軍省新聞班)
国家総動員に就て(永田鉄山大佐)
粛軍に関する意見書
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