プロパーバカと二足の草鞋と経営者 [仕事]

子供の頃は、絵を描き音を奏で文を書く、自分を表現することが楽しく感じるものだ。
自分の場合、ドラゴンボール風のヘタな漫画を描き、縦笛にてファイナルファンタジーの戦闘曲を吹き、剣と魔法の世界設定を捻り出した小学生時代であった。

商業作家として小説を執筆している知人がいる。彼は同業者なのだ。噂によると以前は音楽関係の仕事についていたのだという。小説と音楽のプロである。非常に妬ましい限りである。
はたまた、プログラマを経てこの業界にやって来た人がいる。今やパソコンはどの職場であっても扱えれば扱える程いい。非常に重宝がられている。更に難関資格の職業を捨てこの業界に身を投じた人がいる。短期間のうちにどんどん重要な企画を任され出世街道を駆け上がって行くのを横目に見る。

特殊な経歴を活かして、などというのは叩き上げのプロパーの王道に対する邪道ではある。
もっとも人の才能の容量は一律ではない。アレもコレもこなせてしまう人もいれば何一つとして上手にできない人もいる。実際に窓際で日々を遣り過ごす人がいないでもない。
それならばと精神論を持ち出してみる。熱意ならば誰にも負けないと。熱意で物事は動かせるか?愚直な熱意は視野を狭めることになりはしないか。
トップへの道も閉ざされそうな世情で本当にプロパーでいることに意味があるのか・・・。

そんなことを考えていた時、「週刊ポスト」で渡邉恒雄に関する記事を読んだ。
かの有名な渡邉恒雄は読売新聞の会長にして主筆である。これは欧米から見れば異常なことで、普通は経営と記者とは全く独立すべきものである。だから、日本には真のジャーナリズムはないと。

なるほど、昨今では日本においても海外から優秀な経営者を招く企業も多く見られ彼らはまさに経営のプロ、技術者ではない。日本には(そして世界の企業も創業時は)創業者=技術者の企業がいくつもあり、その起業と人格が伝説化され技術者による経営を認めている。本来、創業者のそれは天才の所業であり、現代の成熟した大企業が容認すべきことではないのだろう。
しかし、中小の集団組織ではどうだろう、はたまたITなどの新しくこれからも進歩を遂げていくであろう分野では?本当に技術のことは識らぬままでよいのだろうか。

ITについては、創成期の第一人者がそろそろ舞台を立ち去る時期に来ている。その動向を見守りながら、一プロパーを貫きたい馬鹿者としてプロパーの在り方を考えていきたい。

追記:本来ならば情報を集め自分の考えを練り上げていくのが文章。ここでは自分に対する視座を提示し、以後この問題については折りに触れ詰めていきたい。