「世間学」すごい [読書]

阿部謹也さんを始めとする世間学の本を何冊か読んで、個人と社会の在り方に対する違和感が晴れた気がした。
まさに蒙が啓かれる思い。

いくつか今の自分に関係すると思った箇所を独自に解釈したので書き出す。
相変わらずの尻切れトンボ。

1)西欧から輸入した社会システムの不全について

阿部先生が例に上げているのは裁判。罪が確定する以前に「世間」が断罪し、親子親族にまで批判が及び婚約解消・自殺などに追い込まれるケース(宮崎勤事件など)。
司法が正しく機能していない。というか司法自体、「世間」によって決定を左右されうるということ。
警察は言わずもがなである。独善的ともとれる行動によくネットで批判が集中するけれども、法の執行以前に「世間」の「空気」に従っている。
日本では法も、「世間」の解釈によって変化するものでもある。

少し前に話題になった生活保護バッシング。これも阿部著作の中で既に取り上げられている。
「世間」がそれと認めた者しか受給してはいけないという「空気」。


わたしたちは、第二次大戦中の軍部の非合理的判断の数々に呆れ果てるが、
その原因が那辺にあるのか理解できているだろうか。
刑事・民事、福祉、教育。さまざまな分野で同様の失態を繰り返しているのではないだろうか。
そして、ある程度の教育を受けた人の方が「世間」に対して無自覚であることが多いという事実。西欧の社会システム、個人主義への盲信。
が、同じことを日本で実現できるだろうか。
それとも「世間」を解明した上でそれに合った社会システムを日本が築いていくことが必要なのか。


2)キリスト教が生み出したもの

中世の告解が、呪術的なものを排除し徹底した個人主義を生み出したという。これはフーコーの説であるらしい。
19世紀以降、この西欧個人主義が世界を席巻し科学の発展を導いた。
西欧以外の国も日本を筆頭に同様のモデルを導入し追いつこうとした。というのが20世紀の構図だと思われる。
が、キリスト者ならぬ身では西欧人と完全に同一の自我を持ち得ない。
逆に「世間」の中で西欧的なシステムを受容して発展してきたものがその関係性に無自覚であるが故に崩壊し立ち行かなくなっている。

日本人のキリスト教者はどのような自我を持っているのだろうか?
アメリカの日本人移民は?
アフリカ系アメリカ人は?
非キリスト系アメリカ人は?

日本では、新宗教を「世間」の代替として台頭してきたものとする説がある。
世間が弱くなった時代に生きている人々がこれに飛びついたのだと。
新しい世代はどうか。新宗教第2世代以降の人間は西欧のキリスト教と似たような作用を受けていると感じる。「世間」と対面する以前に「神」との対話をもって生活していくからだ。
「世間」との距離感が異なる所以である。


3)空気が読めないとは

ある年齢以上の見知らぬ人に挨拶をしても無視されることが多い。
そうした人たちは顔見知りの人を見つけると途端ににこやかに話し出す。
まさに「世間」の現出である。
若い世代では「空気」がそれに変わる。鴻上尚史氏の「空気と世間」によれば、「空気」とは「世間」の流動的なものであるという。
先の新宗教者を含め、「世間」や「空気」の分からない人たちが日本にも現れ始めている。その人達にとっては個人と社会が直接結び付いているのだ。
「空気が読めない」人こそブレイクスルーではないか。


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